後ろは現在チームロバーツでMOTOGPを走る青木宣篤(のぶあつ)。旧HSR九州 3コーナー立ち上がり

1985年峠仲間と西日本サーキット(現美祢サーキット)のライセンスを取得。
「鈴鹿8耐」に30万人もの観客が集まるレースブームの真っ只中である、ここからレース生活が始まる。
125cc全戦優勝などの成績からツキギレーシングより鈴鹿四時間耐久レースへ出場。当時予選出場台数は400台を数えていた。ペアライダーは、その後ジェットスキーの世界チャンピオンとなる金森稔選手(現在カリフォルニア在住、カワサキ所属)。しかし予選で大クラッシュ、レース生活唯一の救急車を体験。
1989年より「ライフレーシングチーム」に所属。
鈴鹿6時間耐久レースにはNSR250RK(F−3)で出場。のちのF−1チャンピオン・ヤマハファクトリーの吉川わたる選手との4位争いの末5位。
全日本選手権西日本大会・ジュニアF−3では、BEETの泉美智雄選手,後のスパーバイクチャンピオン梁明選手らを押さえ優勝。
その年の成績のより1991年に国際A級ライダーに自動昇格を果たす。
F−3クラスの廃止により125ccクラスの全日本選手権を転戦するもその後バブル崩壊によりスポンサー獲得が困難になり全日本選手権からは引退。
その後8時間耐久レースに3度出場し、うち1回は残り10分まで28位を走るがテールランプ接触不良によりピットイン、31位で完走。
最近ではサーキットに足を運ぶ傍らシーカヤックのレースも楽しむ。
出身は千葉県。 
ジープに乗ることから、雑誌「バイクブロス」ではジープミナキとよばれたことも・・・それでハンドルネームは「JM」。
 『バイクブロス』には、創刊からかかわり現在はインプレや誌上ライディングスクールなどを担当。
『レーシングコース スパ直入』では、コース主催のスクールの企画、進行やチーフインストラクターを務める。
2001年より『ライディングスポーツガレージ』(RSG)を主催。レベルアップを目的とする走行会の企画や、色々な遊びの提案をしている。

熊本は大観峰の下のほうで遊んでいたころ。
峠だけでガソリンが空になっていた。この後サーキットへ、当時18歳。この頃が一番楽しかったかな〜。

        ★SP125  当時の入門クラス。
マシンは、新車のRZ125をおろす。
デビューレース。予選10位(?)くらいの位置からスタート。
メインキーをオフにしたままの不可能な押しがけをして、最後尾(30位くらい)まで落ちたが、そこから8位まで追い上げる。ベストラップだった。これでレースにのめり込んだ。

         押しがけスタート!
この二年後、危険と言うことで現在のスタート方式へ変わった。押しがけは早かったので残念だった.
妙にヘルメットがでかい(笑)。

       ★N125時代
出たレースはすべて優勝したが、
鈴鹿四時間耐久レースでの怪我で一戦不出場した。そのせいでチャンピオンを逃す。しかし若い!

           ★J125時代
二年間のRS125で学んだことはとても多かった。毎週サーキットへ通っていたころ。
レースをするためだけに作られたサラブレット(市販レーサー)は、ライダーをレーサーへ成長させたような気がする。
この年はチャンピオンを獲得。

       ★JF−3時代
念願だったF−3へステップアップ。
チームライフへの加入が大きな転機となった。
マシンはNSR250RK。
NSRをベースにしたHRCのレース専用車。RS250にも引けを取らない性能を持っていた。ライフの加藤社長との二人三脚でのチューニングはいい思い出だ。

      ★鈴鹿6時間耐久レース
10位前後を走行中にシリンダーの焼き付きで50分ピットストップ。35位完走。
スプリンレーストのストイックな孤独感に比べ、耐久レースで皆が力をあわせる感覚がすごく新鮮に感じ、耐久レースが大好きになった。

レーサー250との混走でRS250に競り勝つ。後ろはテクニカルスポーツ九州のライダー。(現RSC)

観客が多い!

コースレコードでのポールポジション
2番グリッドは梁明、3番グリッドは和泉美智夫

最高の一瞬だ。

★全日本選手権西日本大会

KITACOレーシングとのジョイントで菊川選手と走った鈴鹿6時間耐久レースは、現ヤマハファクトリーの吉川わたる選手との四位争いの末5位入賞。

国際A級に昇格した年にF−3クラスが廃止、また125クラスへ。

8耐のためにF−1マシンにも乗り始める。初めてチームライフで8耐にチャレンジした。中央は森脇護さん、とライフの加藤社長。モリワキには色々協力していただいたが、モリワキのマシンでの出場はなかった。

マシンは、RC30。前年に柳川明が乗ったマシンのパーツをいくつか移植したマシン。エンジンは、ホンダショプ田島スペシャル、かなり速かった。

やはり8耐はすごい。スポンサーにお土産を買いに出る。

色々な方面からの混成チーム。
ラスト5分まで28位を走る。

ノリックが遊びに来た。まわりはただのミーハーに・・。

広島のレーステック汐崎さんとTRX850で8耐にチャレンジ。

娘・風香は鈴鹿の風を感じたか

克昭(藤原)もこの年はラッキーストライクスズキへ。

バイク以外のライディングでは、シーカヤックマラソンレースで奄美大島まで遠征に行ったり・・。レースは楽しい。

全国から300艇が集まる。
シーカヤックマラソンの8耐!?・・・(笑)。
2002年は3位だった。

つづく・・・・

最近6,7年ぶりにバイクのレースに出場。
教えるのも楽しいが、やはりバイクのレースは楽しいね〜

 本当の選手としての現役生活は10年間くらいだったろうか、そのうち5.6年は全日本を転戦するシーズンで(当時はジュニアクラスも全日本併催のため転戦を余儀なくされた)九州からの転戦はかなり過酷だった。時にひと月のうち半分以上は遠征にでているという月もあるほどで、スポンサーを持っていなければ全日本選手権を転戦するのは不可能だったろう。私は運良く応援していただける方とスポンサーに恵まれ、レースを続けていくことができとても感謝している。すべてをレースに注ぎ込む10年間の生活は一般社会とは全く別世界で、その中で生きている事がとても心地よかった。ほとんど自己陶酔の世界と言ってもいいかも知れない(笑)。
 国際A級に昇格した年はF-3クラスが廃止となり、しかたなく手探りの125ccクラスで3年間転戦したがあまり納得のいく成績を残すことは出来なかった。F-3ではどこのサーキットでもA級で十分通用するタイムが出ていただけにかなり落胆したこともあったが、日本の最高レベルの中でレースをしている満足感の方がとても強かった。このときストレートで着いていけないマシンで戦い続けた苦しい経験が走りを考える土台を作ってくれたような気がする。その後8耐マシン製作やシングルレーサーの開発なども楽しくいい経験になった。
 
 選手として全日本選手権を転戦すること・・。大変なことだがこれを若いレーサーたちに目指してもらいたい。そのためにはその環境まで自分で作らなければならないと思うが、自分のすべてを出してチャレンジすることは必ず何かを残してくれると思う。
よりレベルの高い世界を目指す・・・。これが本当のスポーツマンシップだと思うから。
九州のレーサー達がんばれ!!

メカニックの山本正也と
ポールポジションに並ぶ

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