牛頸区の歴史
牛頸区は須恵器の日本三大窯跡といわれる「牛頸窯跡群」や京都の由緒ある平野神社から分社した「平野神社」、福岡(黒田藩)の風土を記した「筑前国続風土記」等の史跡や文化財が多くあります。
牛頸区では、郷土に伝承されている伝説・民話・習俗・史話・史跡・石碑等をまとめて、次の世代や新しく転居された方々に伝えていくために「牛頸郷土史」を平成14年春に発刊し、牛頸区全世帯へお送りしております。
■須恵器窯跡群の中心
牛頸は62基の古墳と共に、6世紀から9世紀前半にかけて焼かれた数百基の須恵器窯跡群が散在しています。それは大阪府堺市の陶邑窯跡群、名古屋市の猿投山窯跡群と並んで日本三大窯業地の一つです。
それらの窯跡からは、壷・かめ・椀・高杯・平瓶・はそう・円面硯など高度で多様な須恵器が出土し、中でも平野中学校南の「ハセムシ窯跡群」からは文字を刻んだ奈良時代の珍しい須恵器が見つかりました。これは大野城市の有形文化財として指定されています。

指定文化財 銘ヘラ書き須恵器
■竹田家の所蔵文書
貝原益軒の高弟、竹田定直は儒学者として黒田藩に仕え、居を牛頸に構えていました。定直は筑前国続風土記、黒田家譜などの編集に携わり、隠居後は平野神社横に「笛塾」を開いて子弟の教育に当たりました。
上記のほかに、書簡集8巻が県の有形文化財に指定され、福岡県立図書館に寄託されています。
■鎮守の森…平野神社
牛頸の産土神・平野神社は、西暦990年頃に大陸からの敵を防ぎ、西国の鎮守、大宰府守護のため京都平野神社から勧請して創建されました。祭神は仁徳天皇と渡来系の今木神と久度神、古開神、比盗_であり、渡来系の窯業技術団に深い繋がりがある神社と言えます。
祭礼は4/19春ごもり、7/18およど(夏祭り)、7/19夏ごもり、10/16〜18宮座、12/29うしどん(中止)。お盆には区民総出の楽しい盆踊りが催されます。
写真の天狗の面は1976年に奉寄進されたものです。
■壮烈…不動城
平野神社の南にある黒々と樹木が繁る小山は、戦国時代の山城・不動城です。室町時代、秋月氏の家臣・奈良原高助が入城しました。
その後奈良原兵庫助高政が城主となりましたが、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の時に落城し、高政ほか上層部は切腹して果てました。
高政と重臣の墓は牛頸ダムの下の、井手の丘の上(大津寺跡)にあり、手厚く祀られています。
■やすらぎの森…薬師の杜
昔、牛頸小学校があった現在の「さくら公園」の南にこんもりとした森があります。森の中には江戸時代に建てられた薬師堂がひっそりと建っています。
境内にはエノキ、クスノキ、タブノキ、ヤブニッケイ、クロキ、ヤブツバキなどが育っていて、中でもエノキの大木には、まれに見る大きなキズタが這い上がっています。この森は、市の天然記念物に指定されています。
■庚申と猿田彦太神の石塔
集落の入り口にあり、集落を守る神様です。また、道を行く人の安全を守る神様でもあります。 牛頸区には12の石塔があります。
・庚申…井手  ・庚申尊天…丸隈(猿田彦太神と並んでいる)
・猿田彦尊…平野神社境内
・猿田彦太神…丸隈・原・中通り・堂の本・月の浦・畑ヶ坂・横峰・平田
・猿田彦大神…大立寺
庚申さま
庚申尊天・猿田彦太神
猿田彦尊
■奈良原兵庫助の墓碑
牛頸不動城は室町時代に秋月氏の家臣・奈良原高助が入城しました。その後、牛頸不動城主の奈良原兵庫助高政は、秋月種実の先手として豊臣秀吉に抗戦し天正十五年に切腹したとされている。現在、この奈良原兵庫助高政の墓碑は、井手の丘の上(大津寺跡にあるお堂)のすぐ横にある。大津寺跡にあるお堂は地元の子ども達にはおせったいひきで馴染みが深い。奈良原家はその後、黒田家中として繁栄した。
■牛頸に伝わる民話
牛頸区には「天狗の鞍掛けの松」や「次郎・太郎の松」、「刀すすぎ池」、「底なし沼の人柱」といった民話があります。
市役所の歴史資料展示室のホームページで大野城市の民話を見ることができます。
お住まいの地区の民話をご覧ください。 大野城市役所のホームページはこちらから

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