気ままに釣りエッセイ             徒然なるままに気が向いた時にのみ更新されるサイト
     

 しとしとと降り続く雨、日本の四季の隙間を埋める梅雨入りが宣言されると、うなぎが釣れはじめる。今年も例年通り一人で四本も五本も竿を並べている釣り人が、右を見ても左を見ても続いている。場所はいつものベイサイドプレイスの裏手に位置する那珂川の河口である。一年で一番陽が長い月ではあるが、時計の針が7時半をさす頃にはさすがに夜の帳があたりを包み始めている。うなぎ釣りのゴールデンタイムである。今日は仕事が忙しく会社を出るのが遅くなり一級ポイントは諦めてはいたものの、昨日の雨の影響で水が程よく茶色に濁っているためであろうか、入る隙間もない程に予想以上の盛況ぶりである。様子見のつもりで竿は二本しか用意していないので、断りを言って先客の隙間に入れてもらう。  今日の仕様は2.7mの万能竿に5号の道糸を巻いた3000番のスピニングリールのセット。おたふく鉛の10号を通し、市販のうなぎ針仕掛け14号を結ぶ。最近の市販仕掛けはハリスをゴム管で覆っているので、うなぎが掛ってもハリスがぐるぐる巻きにならなくてすこぶる使い勝手がいい。
餌はアサリ貝である。殻を割り身だけの2個掛けとする。一本目は正面へ思いっきり、二本目はそのやや右側に半分の力でキャストする。鈴をつけてあとは待つだけとなる。
その時、右隣の人に当たりがあり60㎝を超える立派なうなぎが上がってきた。それを眺めていると、今度は左隣の釣人に50㎝ほどのサイズが続く。竿を出したばかりではあるが、左右で立て続けに釣られると流石に焦る。そうしているうちにまた右隣りが釣り上げた。今度は先ほどより太いように見える。この釣り方は運が左右することは充分承知しているものの、愚痴の一つも言いたくなる。そんな周りをぼんやり眺めながら、半世紀も前の那珂川のウナギ釣りが思い出されてきた。

梅雨の最高級魚:鰻(ウナギ) 
 
 鰻を裁く際は、カッターが便利(写真は刺身包丁)
 
鰻の素焼き(縮まないように串に刺して焼く)

5060年程昔のウナギ釣りの話である。その頃は高度成長期の時期ではあったものの、まだ那珂川には工業排水の影響は少なく、川底にはきれいな砂が敷き詰められていた。屋台や金魚すくいの露店が並ぶ当時の中州の護岸は石垣で組み上げられていて、その石垣の水面下の隙間はウナギの恰好の住処になっていた。博多の中州とは、最南端にある清流公園を起点に那珂川と博多川に分かれ、最北端の中島公園で合流して一本の那珂川の流れに戻る。それまでのおよそ1km程の区間が、文字通りの「中州」の地名であるウナギ釣りに行く時はその清流公園から那珂川本流側に入る。干潮になると、小学生低学年でも半ズボンが余裕で濡れない程の深さでしかなくなる。清流公園を起点に釣り下り、潮が満ちてくる前に戻るのである。
 釣り方は穴釣りである。タックルはいたってシンプルで、まずテグスであるがタコ糸を使用していた。現在では化学繊維の丈夫で擦れに強いラインがあるが、当時のラインは擦れに対して非常に弱かった。そこで太めのタコ糸にウナギ針を細糸で巻いて留め付け、接着剤で固めて作っていた。エサは大砲ミミズ(台湾ミミズ)である。近くに住吉神社があり、その参道の両側は多くの落葉樹が植わっていて、その木々の下は枯葉で覆われいつも湿っていた。腐葉土と化した枯葉の下は大砲ミミズの飼い付け場よろしく、エサの確保には事欠かなかった。
 次に竿であるが50cm程の長さの竹ひごの先に、浮きを止めるゴム管を3mm程残して差し込む。つまり竹ひごの先端に3mm程ゴム管だけの部分ができるようにする。そこにエサを刺した針の先を引っ掛けて、タコ糸を引っ張ったまま竹ひごの端を一緒に握る。これで準備は完了である
 釣り方は多少のテクニックを要する。まず、エサが付いている竹ひごを、水面下にある石垣の穴(隙間)に少しだけ差し入れる。そこからゆっくりと奥に向かって差し込んでいく。穴に奥行きがなければ次の穴に移動する。奥行きがある場合は途中で何度か止めながら少しずつ差し込んで行く。ウナギが居ればエサを咥えて引き込み始める。そこで竹ひごをそっと引き抜き道糸を緩める。するとウナギは後退りするように更に道糸を引き込んでいく。そこで道糸を緩めたままで手に巻き付けて、合わせのタイミングを待つ。十分に喰い込んだと思ったら、渾身の力を込めて一気に引き抜く。この喰わせの時間の読みがなかなか難しい。釣れたウナギは針をつけたままミカンが入っていたナイロンの網袋に入れ、その中で針を外す。これがウナギの穴釣りである。夢中なると時間を考えずに釣り下って行ってしまい、気が付くと半ズボンの裾が濡れ始めている。慌てて清流公園まで戻るのであるが、たどり着いた時には腰まで潮が満ち込んできたことが何度もあった。
 あとウナギの穴釣りに良く通った場所に、那珂川の上流の「バンタク」と呼んでいた堰があった。住吉から簑島通り(現美野島通り)を抜けると九州松下電器(現パナソニック)ビルに出る。そこから右にある清美大橋を渡ると、大橋を通って佐賀に抜ける国道385号線に繋がるのだが、橋を渡らずに川沿いを1km程上流に行ったところにある堰がバンタクである。この堰は半分がコンクリートで出来ていて、残り半分が昔ながらの石積の造りであった。石積堰の構造は、下流側に50cm程の間隔で打ち込まれた木の杭を起点として、上流に向かって大きな石を傾斜を付けて積み上げて行く造りであった。穴釣りは杭で止めてある石の隙間に、下流側から竹ひごの竿を差し込んで探り、横に移動して行くのである。
 堰の上流側はせき止められた砂が水面ギリギリまで達しており、それが天然のろ過装置となっていたのであろう、下側の杭の隙間から流れ出てくる水はいつもきれいな水であった。ウナギの他にナマズも良く釣れた。ここには最初の頃は父親に車で連れてきて貰っていたのだが、そのうちひとりで自転車で来るようになった。大きな工場の排水溝がここより下流にあったため、高度成長期の煽りを受けて那珂川がヘドロ化していった時期も、それほど影響を受けることなく釣りが楽しめた場所のひとつである。現在では石積みの堰だった部分は埋め立てられてしまっており、昔の風景はどこにも残っていない。寂しい限りである。昔の風景と言えば、信じられないかもしれないが、バンタクに通じる簑島通りには西鉄バスが走っていた。もちろん現在よりは小さめのボンネットバスではあるが、現在でも美野島通りを通る時には乗用車同士でもすれ違うの際に苦労するのに、バス同士がどのようにして離合していたのか今でも不思議でならない。
 想い出しついでに当時の博多の様子を少しばかり記しておくことにする。しかし記憶だけを頼りに思いつくままに書くことであり、実際とのずれがあったりするかも知れないが、私的な記録であると思って頂ければ、と思う次第である。
 当時の居宅は、市内電車の「博多駅前電停」(博多駅が現在の場所に移転後は「馬場新町電停」に改名)よりひとつ住吉神社寄りの、「管弦町電停」から那珂川に向かっていく途中にあった。ここは住吉地区の北端に当たり、カネボウのゴルフ練習場(跡地は現在のキャナルシティ博多)の南端に面していた。もう少し北側に住んでいれば、博多祇園山笠のどれかの流れに参加できたのであるが、カネボウより南側には声が掛からなかった。博多に住んでいるからには一度は経験してみたかった祭りであるが、残念である。 博多駅移転当時の風景であるが、移転前の博多駅は、現在の博多警察署のところから大博通りの商工会議所入口交差点の先までの場所であった。それが1963(昭和38)12月に現在の場所に移転した。移転時に、市民の足の一番手であった西鉄の市内電車の線路の敷設が間に合わなかったこともあり、田んぼの中に一つだけぽつんと浮かぶ孤立した離れ小島のようであった。旧博多駅の解体中のプラットホームからは、途中に視界を遮るものは何もなく、新博多駅はもちろんの事その先の板付飛行場まで見えていた。、新博多駅に市電が開通したのは、翌年の1964(昭和39)7月であったが、その煽りを受けたのが株式会社丸栄であった。当時祇園町西交差点の東角にあった渕上デパート(現マッスバリュー博多祇園店)が、博多駅移転の年に火災で焼失してしまっていたところに、新博多駅ビルに大光百貨店という名前で出店したものの、市内電車も通らない田んぼの中の孤島状況にこらえきれずに、小倉井筒屋資本の博多井筒屋に明け渡すことになったのである。これにより株式会社丸栄は株式会社ユニードと商号変更し、百貨店経営から撤退しスーパーマーケットへと変わってしまい、慣れ親しんだ渕上デパートは消滅したのである。また、博多井筒屋は2007(平成19)に博多駅ビルの建替工事による解体まで続いた。現在は博多阪急百貨店が出店している。
 旧博多駅は取り壊され、その跡地を横切るように大博通りの工事が始まった。市内電車は新しい博多駅線が開通した年の暮れに、住吉から馬場新町(旧博多駅前)までを廃線とした。これにより管弦町電停もなくなり、不便を感じたものである。
 また国鉄の旧博多駅から南へ下る線路跡は道路となり、キャナルシティ博多を起点とするその名も「こくてつ通り」として現在に至っている。
 日本全体でみると1964(昭和39)がオリンピックや新幹線開通等、大きな転換期であるが、博多の街にとっては1963(昭和38)に大きな出来事が続いていた。渕上デパートの火災や博多駅移転に加え、梅雨末期の集中豪雨による福岡大水害があった。市内のいたるところで氾濫が起き、博多では那珂川も氾濫して道路は冠水してしまった。中でも鮮明な記憶として残っているのは柳橋の流失である。まず中央部より崩れ始めるのであるが、市内電車も通る程の大きな橋であったため、誰も崩壊するなどとは思っていなかったのであろう、崩れる寸前まで人の往来があっていた。橋の両側で見守っていた人達が悲鳴を上げる中、いよいよ橋が崩壊し始めた時にはまだ走って逃げている人の姿があった。そして中央部の崩れ落ちた部分に、親子で命かながら逃げたのであろう、子供の三輪車が引っ掛かった状態でぶら下がっていた。その光景が今でも目に焼き付いている。
 話が横道に逸れたついでに、当時那珂川の中州の区間に仕掛けてあった、ウナギ捕りののヤナについても触れておこう。それはピラミッド型に積み上げた石の下に、中を刳り貫いた7080cm程の長さの竹を、川の流れに沿うようにして10本程束ねて沈めてあるものである。設置方法はまず川底の砂を少し掘って、その底に竹筒を10本程流れに沿って束ねるように重ねて置く。その上に小学生低学年だとやっと持ち上がる位の大きさの石を置いていく。竹筒の両側が隠れるように積み上げていくと、それが川の中に石で出来た小さなピラミッドの形になるのである。そのヤナが那珂川の中州の区間に1015程仕掛けてあった。
 これがウナギを捕るためのヤナであることを教えてくれたのは、名前すら知らない中学生くらいのお兄ちゃんたちであった。当時は子供の遊びの知識は、子供同士の縦社会の中で継承されていた。那珂川は福岡市内の高低差の少ない平野部では、5km程上流の現在の清水橋まで海の干満の影響があった。特に柳橋から中州までの区間はそれが顕著であった。そこで潮が引き始めると子供たちがどこからとも集まってくる。浅瀬で網を持ってイナッコ(ボラの子)を追いかけて川の中を走り回る者、干潟で釣りの餌にするためのゴカイを掘る者、赤い金魚や黒い出目金を探して広範囲に移動する者(夜の中州の名物である川べりの金魚すくいで弱った金魚が川に捨てられていたが、それが汽水域の塩分で復活したものと思える)、石垣や捨て石周りでザリガニを捕る者、先に述べた石垣でウナギの穴釣りをする者、誰かが設置したウナギのヤナを崩してウナギを捕る者(もちろん元通りに組み直す)、等々子供の絶好の遊び場になっていた。年齢の幅は小学生の低学年から中学生までと幅広く、何度か顔を合わせる内に名前なども知らないままに親しくなり、はっきりはしないまでも、それなりの上下関係が知らずのうちに構築されていた。その中でお兄ちゃん達から、そこで遊ぶためには欠かせない色々な事を教えて貰った。ザリガニの持ち方から、ゴカイはスコップなどで砂ごと掘って山を作り、上から水を掛けると途中で切れることなく捕れる事や、中州周りで金魚が取れることも教えて貰った。時には危ないところを助けてもらったこともあった。橋の橋脚の周りはいつも流れで抉られていて、その淵の足場の砂は脆く、アリ地獄の巣よろしく気を付けていなければ一気に深みに嵌る。その危険性を教えてくれたのも、また溺れかけたところを助けてくれたのもお兄ちゃん達であった。
 ウナギのヤナの捕獲方法であるが、まず積み上げてある石を除いて竹筒を取り出せるようにする。それから水に浸かっている竹の両側を左右の掌で塞いで持ち上げ、どちらかに傾けて水を切る。中に獲物が居れば手に当たるので、筒の先をミカン袋に突っ込んで手を外すのである。ウナギのほかに鮒や小魚が入っていることもあった。二つのヤナでをウナギ一匹が捕れれば御の字ぐらいの確立で、あまり大量に捕れた記憶はない。それを教えて貰う迄、このピラミッドが何でここにあるのかさえ考えてもみなかった。お兄ちゃん達と一緒になって石をどかしてはいるものの、これは間違いなく大人が作ったものと思えたので「勝手に捕ってもいいと?」と聞いてみた。すると「初めて捕った時には石に苔が生えとったけん、誰も来とらん証拠たい」という答えであった。そして竹筒の確認が終わったら、「元通りに組み直しておけよ」とも言われていた。しかしそのあと何度目かの密漁の時に、竹筒がエンビのパイプに代わっていたのである。やはりちゃんと管理はされていたのである。やり方は解っても小学生低学年では、干潮の間に頑張ってみてもせいぜい一個か二個がいいところである。ひょっとしたら「子供のする事」と見て見ぬふりをしてくれていたのかも知れない。
 
そんな昔の想いにふけっていたら、激しい鈴の音で現代に引き戻された。この当たりはウナギである。音のイメージを文字で表現すると「チリン、チリン」ではなく、「ガチャ、ガチャ、ガチャ!」である。周りに気を使ってまず鈴を外す。それから合わせを入れて竿を立てると、グングンとかなりの引きである。あんな細長い体形で、よくもこんなに強い引き方が出来るもんだといつも思う。足元まで寄せてみるとそれなりの大きさである。ギリギリまで道糸を巻いて、慎重に取り込んだのは60cmは楽に超えている立派なウナギであった。今年の初物である。かば焼きが食べられる嬉しさが込み上げてきた。よし、次を頑張るぞ!と、二匹目のドジョウならぬ二匹目のウナギを狙って、同じところに投入する。もう一本の竿も同じ距離の、やや右側に投入した。しかし30分ほど待っても音沙汰なく、仕掛けを上げてみると餌はついたままである。二本の竿とも餌を付け替えて投入した頃から、周りの釣り人の撤収が始まった。時計を見ると午後の9時を回っている。ウナギのゴールデンタイムの終了である。様子を見に来て一本取れたなら上出来である。周りに倣って撤収作業に取り掛かった。これからは雨が降った翌日が楽しみである。
 明日の天気予報は雨だと言っている。次の日また来よう!