気ままに釣りエッセイ             徒然なるままに気が向いた時にのみ更新されるサイト
     

暖かいというより暑かった9月も、10月へと月が変わったらやっと秋本来の冷え込みとなり、街の銀杏並木も黄色に色付きはじめた。この季節になるとハゼ釣りに行きたくなる、というよりハゼの天ぷらが食べたくなる。夏のキスもいいが秋のハゼも実に旨い、特に天ぷらにすると絶品である。
 そこで、日曜日なのに久々に家にいる嫁さんを誘ってみると、「付き合ってもいいよ」という返事。気が変わらないうちにと、道具をばたばたと車に積み込み家を出た。
 
今日の釣り場はベイサイドプレイス裏手の那珂川河口である。早速仕掛けをセットする。子供用の1.8mのコンパクトロッドに小型スピニングリールをセット、市販の投げ釣り2本針仕掛けに餌は青虫。半分に切って針に刺す。同じものを2本用意して、一本は正面の競艇場を覆うブルーシート手前へ、もう一本は川の中ほどへ投入し鈴をつけた置き竿にして当たりを待つ。
 もう陽は傾きはじめている。それでも2時間は釣れる計算であるが、西の空の雲行きが怪しい。
「もう少しもってくれ」と思っていると、嫁さんは「ちょっと買い物に行ってくる!」のひと言を残してもうベイサイドの方角へ歩き出している。最近リニューアルしたベイサイドプレイスは海産物の買い物には魅力的な場所らしい。
「ゆっくりいいよ」と嫁さんの背中に向けて声をかけたところで最初の当たりがきた。鈴を外して巻き上げると12~13cmほどのレギュラーサイズがぶら下がっている。左手で握り右手で針を外すとき、ハゼの顔を間近に見ることになる。丸い顔とほんの少し上に飛び出した小さめの目。それを見るといつも半世紀前の同じ顔を想いだしてしまう。。

愛らしいハゼのアップ
 
懐かしい車リール(台湾リール) 

ハゼ釣りに日課のごとく通い始めたのがいつごろからかは定かではないが、小学校に通い始めた頃この季節になると、学校から帰るとランドセルを放り投げ、天気さえ良ければほとんど日を空けず竿を出していたように記憶している。
 当時住んでいた場所は、現在はキャナルシティとなっているが、昔はカネボーのゴルフ練習場だった南端のところで、中州の南端にある那珂川と博多川との分岐点となる清流公園と、住吉橋との中間に架かる、当時なんと言う名前の橋だったか失念してしまったが今は「灘の川橋」という名の橋があり、家からは歩いて5分ほどのところであった。
 竿とリールを持って家を出ると、いったん春吉側へ橋を渡り、河原へ下りてゴカイを獲る。ゴカイは石をめくればそこにいて、素手で下の砂ごと掬えば簡単にいくらでも獲れた。10匹ほど獲れると橋の上に戻り、仕掛けをセットする。
 竿は父の手作りである2本継の竹製である。リールシートもガイドもハンドメイドで付けてある。リールは通称「車リール」、またの名を「台湾リール」という木製のリールで、それは水車のミニチュア版のような形をしていた。その水車の外周に糸が巻いてあり、投入後に竿を立て糸ふけを取ったら、その水車の羽根にあたる部分に棒切れを差し込んで回転を止めておく。巻き上げるときは羽根の間に指を差し込んで回すのである。竿の先には鈴がつけてあった。現在あるようなクリップ式などはあるはずもなく、鈴をUの字に曲げた針金に掛けて糸でガイドと同じように止めつけられていた。錘は中心に通したタコ糸の両方に輪が作ってあるオタフク型である。これもたぶん父の手作りであろう。それの一方には道糸を、他方にはハリスを直結してそれに流線針を結ぶ。その頃には間違いなく外掛け結びをマスターしていたようだ。その針にゴカイを頭から針いっぱいに刺し込み1cmほど垂らして指で切る。
 準備が整うといよいよ投入である。今振り返れば2mにも満たない短い投げ竿であるが、低学年の小学生にとってはかなりの長さで、全身を使って振り回す要領でキャストをしていたような記憶が残っている。それでも飛距離は橋の高さも手伝って30m以上出ていたようだ。そして着水と同時に掌でリールの回転を止める。このタイミングが難しいらしく、見よう見まねの子共達にはまずできなかった。
 車リールは片軸リールの一種であり、石鯛釣りの遠投と同じなので、何度か繰り返えせば要領をつかめたであろうが、昭和30年代のこの頃、投げ釣りをしている人はそうはいなかったように見えた。継ぎ目のない一本物の竹竿が30円で買えていたので、延べ竿を持っていた子供はかなりいたようであるが、スピニングリールは出始めのころで値段も高く、投げ釣りはまだこれから、という時代であった。そんな中で他人の道具を使ってまで投げ方を習得しようとする意欲もなかったのであろう。
 同い年の友達や近所のお兄ちゃん達も挑戦をしてきた、というより、無理やりに竿をむしり取り見よう見まねでキャストをするのであるが、100%バックラッシュで討ち死にである。それを解いて元に戻している間にほとんどの者は姿を消していた。中には果敢に2度目に挑むも子もいたが、再度バックラッシュを起こすか、あるいは回転を止めるのが早すぎて、錘だけがちぎれて飛んでいってしまう。要領は決して教えなかった。今思えばいやな子供だったのかもしれないが、一本しかない竿を取り上げられてはたまらないと思っていた。そうするうちに釣りの邪魔をする輩はいなくなり、竿を橋の欄干に立てかけたまましばらくその場を離れても、誰もさわろうともしなくなっていた。のんびりと釣りを楽しむ環境は整ったのである。
 ハゼはよく釣れた。潮が引くと水深は子供のひざより浅くなり、そうなると橋の上からでもハゼの姿が確認できた。その鼻先に仕掛けを投入すると簡単に食いついてくる。どこでも同じくらいの水深であったが、深いところもあった。それは橋脚の周りと、下流に向かって右手にある下水の排出口付近である。その深みに仕掛けを入れるとフナも釣れた。フナがかかるとハゼとは比べものにならない程によく引き、そのやり取りは十分に満足を覚えるものであった。
 しかし、この環境は思いもよらないことで崩れ去ってしまった。それは高度成長期に伴う弊害であった。川底はヘドロが溜まり砂地がまったく見えなくなり、小学校2年生の秋を最後に魚がまったくいなくなってしまった。それを機に上流のハヤ釣りへの変更を余儀なくされたのである。那珂川の汚染は年々ひどくなり、そのうち悪臭を放つドブ川へと姿を変えていった。
 魚が姿を消してから7年後、中学を卒業してから高校の入学までの長い休みの期間に、電気工事の会社でアルバイトをした。その現場は那珂川河口付近の建築物で、通常のビルとは違う建物の配線工事であった。工事は急ピッチで進められ完成後はすぐに稼動し始めた。それが福岡市の下水処理施設であることはあとになって知り、那珂川の浄化に少しなりとも関与できたことをうれしく思ったものである。それと並行する形で那珂川のヘドロの浚渫作業もはじまった。
 すると、翌年の秋には、ハゼの姿が橋の上から確認できたのである。さらに上流の通称バンタク付近では、台風後の大雨で上流から流れて来たゴミや流木でできた、天然のヤナの上で跳ねる鮎の姿も確認できたのである。那珂川から魚が姿を消してからちょうど10年後のことであった。
 それからも那珂川は少しずつきれいになり、現在では半世紀前と同じように、休日を楽しませてくれる魚が当然のように泳いでいる。
 そんな昔に想いを馳せながらも、ハゼは順調に釣れ続いている。
「寒い、もう帰るよ!」、いつの間に戻ったのか、嫁さんのツルの一言で納竿とする。
 空は何とかもってくれたし、ハゼも今晩の天ぷら分は確保できたし、のんびりできた休日の午後のひと時であった。